作詞者不詳とされた謎多き「蛍の光」 4番が物語る沖縄戦への入り口
「100年をたどる旅」沖縄編 インタビュー
明治期から150年近く歌い継がれる「蛍の光」には、謎が多い。長らく作詞者は不詳とされ、3、4番の歌詞があったことを知る人も少ない。「蛍の光と稲垣千頴(ちかい)」の著書がある中西光雄さん(65)=横浜市=に、この歌がたどった数奇な運命を聞いた。
――「蛍の光」は今も、別れの歌として広く歌われています。
世に出たのは1882年です。文部省(現文部科学省)が初めて作った音楽教科書「小学唱歌集 初編」に載せた唱歌の一つで、卒業式の歌として定着していきます。原曲は「オールド?ラング?ザイン」(久しき昔)というスコットランド民謡で、文部省の音楽教育機関だった音楽取調掛(とりしらべがかり)(現東京芸術大学音楽学部)が歌詞を付けました。
――唱歌とは何ですか。
明治維新後、近代教育を全国に広めようとした新政府は、西欧にならって音楽教育を始めます。子どもたちの道徳的な心を養う「徳性の涵養(かんよう)」をめざして歌わせたのが唱歌で、「春の小川」や「故郷(ふるさと)」も有名です。
――「蛍の光」には戦前、3、4番があったそうですね。
はい。しかし戦後に出版された教科書に3、4番は載らず、次第に忘れ去られました。3番には「ひとつに尽くせ 国のため」(ひとつになって尽くせ、国のために)、4番には「至らん国に いさおしく」(派遣された地で、勇気を持って)といった歌詞があり、戦前の国家主義を想起させるものだったからだと思われます。
――特に4番は、当時日本が領有したばかりの「千島」や「沖縄」が歌詞に入るなど、極めて政治的でした。
4番の冒頭の歌詞は、「千島…